小田島隆のコラム道
本書は、そのタイトルの通りコラムについての本だ。コラムについての本で記事を書くのだからコラム的な面白い文章を書かなければならない。そんなプレッシャーと共にこの記事を書いている。書き出しについて本書では素直に自分の気持ちを書くのも良いと書いてあったので、その通りにしてみた。案外悪くない。そもそも、執筆者はいい書き出しで始めるための努力に心血を注ぐが、執筆者ほど読者は書き出しを気にしない。本書の第6部ではそんな書き出しについて述べられている。面白い文章を書かねばならないプレッシャーと共に今回は『小田嶋隆のコラム道』を紹介する。
コラムとは何か
本書はまずコラムとは何か論ずるところから始まる。コラムとは何か情報それ自体を運ぶものではなく、その運ぶ過程自体に意味を見出すことだ。
コラムニストとは、積荷を運ぶために海を渡るのではなく、航海それ自体のために帆を上げる人間たちを指す言葉なのだ。
そして本書も「ミシマガジン」に掲載されたコラムを書籍化したものだ。つまり、本書の本質は内容そのものではなくその内容を伝える過程、文章自体にある。その意味で、本書は上首尾にいっている。まさにコラムらしい面白い文章の連続だ。決して内容がないというわけではないが、本書の本質がその文章自体にあるのは確かだ。逆にそれが冗長に感じる人もいるかもしれない。話は脱線しまくるし、捉えようによっては無駄に思えるような文章も多い。それもまたコラムの面白さなのだ。コラムは新聞記事ではない。
コラムは「異端」の原稿であり、「枠外」の存在であり、常識の「埒外」にある制作物ということになる。
コラムの方法
本書の後半では、筆者がコラムをするときにしていることについて述べられている。例えば文体は主語によって決まるということが挙げられる。文体というのは要するに「文章のスタイル」ということだ。筆者は「どうやったら文体を手に入れられるか」とよく尋ねられる。しかし、文体というのは身につけるものではなく自然に身につくものだ。そして文体が歩き方だとしたら靴に当たるのが主語だ。「私」はフォーマルで文語的で成熟させた人格を想起させる。「オレ」はより私的で子供っぽく気さくな人格を想起させる。「僕」はその中間。そう著者は考える。主語の重要性を確かめるために村上春樹著の『ノルウェイの森』を例にとって試してみたいと思う。
「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」と僕は言った。
これはどれぐらい好きかと聞かれたときに主人公が答えた言葉だ。今回はこの文の主語に注目してみたい。元の文での主語は「僕」だ。これを「オレ」に変えてみる。
「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」とオレは言った。
どうだろうか。主語を「オレ」に変えただけで大きに印象が変わっただろう。比喩がとても子供っぽく見える。「好き」という言葉に本心がこもっていないような気がする。では主語を「私」に変えてみると
「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」と私は言った。
今度は「私」の持つ知的なイメージと、いってる内容が合っていない。ここでもう一度原文を見てみると、子供っぽすぎずまた知的すぎない「僕」という主語の効果がわかる。このように主語は文体に大きな影響を与える。
またコラムに必要な裏をみる目についても紹介されている。芸能人が不倫をして、「世間を騒がしてしまい申し訳ない」と謝罪した。このトピックをもとにコラムを書くとしたらどう書くだろうか。ただ批判するだけだと面白くないし、擁護するのも無理がある。コラムニスト的な切り口はどんなものかといったら「申し訳ない」という言葉の対象は誰なのかということなどを著者は挙げる。その芸能人は不倫したのだから妻に謝るべきだ。しかしどうして世間に対して謝る必要があるのだろうか。こんな具合だ。
このような裏を見る目がコラムには必要だと著者は考える。
おわりに
今まで紹介してきたコラムを書くすべはコラムに限らず様々な場面で役にたつ。文章の楽しさを見つめ直す本書をぜひ読んで見てほしい。